アクセサリーの前に、眼鏡を変える
この記事でわかること
この記事では、私がアクセサリーに興味を持ちながらも、なぜ積極的に取り入れてこなかったのかを整理します。
アクセサリーは印象を変える力を持つ一方で、見る側に「なぜそれを着けているのか」を考えさせるアイテムでもあります。
そこで私は、いきなりアクセサリーを足すのではなく、まず眼鏡や革靴のような「必然性小物」を通して、装いへの関心をなだらかに伝える方が自然なのではないかと考えています。
目次
- アクセサリーに興味はあるが、あまりつけない
- 必然性とは何か
- アクセサリーは必然性が薄い
- 必然性小物とは何か
- なぜこだわりを入れやすいのか
- ただし、必然性が強すぎると私服で浮く
- 必然性小物を通して前置きを伝える
- 文脈はなだらかにずらす
- ずらしすぎるとガラパゴス化する
- 結局、アクセサリーをつけたいのか
アクセサリーに興味はあるが、あまりつけない
私は、あまりアクセサリーをつけません。
興味がないわけではありません。
アクセサリーによって印象が変わることは、間違いなくあると感じています。
ただ、アクセサリーは見る側に「なぜそれを着けているのか」を考えさせるアイテムでもあります。
だから私の場合、いきなりアクセサリーを足す前に、まず眼鏡や革靴のような「必然性小物」で、装いへの関心をなだらかに伝える必要があると思っています。
必然性とは何か

社会常識の中で、装うにあたり、最低限必要とされてきたものがあります。
必要だから身につけている。
だから、なぜ身につけているのかを問われにくい。
このように、着用理由の説明責任がある程度免責されたものを、私は「必然性」と呼んでいます。
トップス、ボトムス、靴は、必然性が非常に高いアイテムです。
裸体を覆うというプリミティブな役割があり、それぞれのアイテムが相互に接続することで、服装全体が成立しているからです。
このようなアイテムは、通常、見る相手に理由を考えさせません。
しかし、アクセサリーは違います。
アクセサリーは必然性が薄い
アクセサリーは、それ自体で完結しているアイテムです。
完結しているから、他のアイテムとの関係性が薄い。
関係性の薄さは、独立性の高さを示すと同時に、必然性の薄さも意味します。
「なぜそこにあるのか」
アクセサリーは、アイテムとして評価される前に、まず存在理由を問われやすい。
もちろん、本人には理由があります。
感触、素材、意匠、作り手の背景に惹かれている。
ただ、その思いの質量を、外から見る相手が同じように受け取れるとは限りません。
本人の中では十分な理由があっても、相手から見ると、ただ唐突に置かれた装飾として読まれることがある。
私がアクセサリーを積極的に取り入れにくい理由は、そこにあります。
必然性小物とは何か

一方で、小物の中には、独立性を持ちながらも、着用意図を問われにくいものがあります。
「そこにあること」が許されている小物。
それを私は「必然性小物」と呼んでいます。
たとえば、革靴、鞄、ベルト、眼鏡などです。
これらは、単なる装飾ではなく、生活や仕事の中で必要なものとして読まれやすい。
「必要だから持つ」
この必然性が、それを身につける理由を免責してくれます。
なぜこだわりを入れやすいのか

仕事という文脈では、必然性小物を身につける理由がかなり強くなります。
そのため、そこに趣向性を入れても、
「変におしゃれしている」
ではなく、
「道具にこだわっている」
として処理されやすい。
良い靴、良い鞄、こだわりの眼鏡
これらは、装飾であると同時に、道具へのこだわりとしても読まれます。
必然性小物は、ホンネを入れる入り口になると考えています。
ただし、必然性が強すぎると私服で浮く
必然性はあらゆる場面でそのまま通用するわけではありません。
むしろ逆に、ビジネスシーンで成立しているアイテムをそのまま私服に持ち込むと、コーディネートではなく、組み合わせの事故として読まれることがあります。
異物感や違和感が出てしまう。
これは、ビジネスの運用淘汰の中で生まれた必然性が、その文脈に最適化されているからです。
ある場所で強く機能するものは、別の場所ではそのまま使えないことがあります。
必然性とは、閉じた最適化でもある。
だから、必然性小物を私服に持ち込むときは、そのまま置くのではなく、少し文脈をずらす必要があります。
大事なのは、主張を読める筋道を立てること
人が集う場や、コーディネートに他者の視線が入る場面では、注意したいことがあります。
それは、アクセサリーを身につける意図を、相手が読める形にしておくことです。
「この人は、おしゃれに関心があるんだな」
この前提条件を、相手にも共有してもらう必要がある。
アクセサリーは、素材や意匠や背景について語られがちです。
しかし、身につけている本人がどれだけその重みを感じていても、外から見る相手が同じように読み取れるとは限りません。
気に入る理由があり、身につけている。
けれど、その理由が相手には共有されない。
共有されない主張は、違和感として読まれやすい。
これを防ぐためには、双方のギャップを埋める前置きが必要だと考えています。
必然性小物を通して前置きを伝える

口頭で「私はおしゃれに興味があります」と宣言するわけにはいきません。
だから、言外にその意図を伝える必要があります。
その手法として考えられるのが、必然性小物の文脈を少しずらすことです。
たとえば、眼鏡があります。
眼鏡は、必然性小物の中でもかなり特殊な位置にあります。
顔の中心にあり、相手の視線に入りやすい。
それでいて、視力補正という明確な理由がある。
つまり、目立つ場所にありながら、そこにあることを許されている小物です。
普段つけている眼鏡から、少し形や色、レンズの印象を変えてみる。
それだけで、
「今日は少し装いを意識している」
という含意を渡しやすくなります。
アクセサリーをいきなり足すよりも、まず眼鏡で装いの予告をする。
私には、そのくらいの順番が今のところあっていると感じています。
文脈はなだらかにずらす

文脈をずらす際は、なだらかに意図が移行することが望ましい。
眼鏡であれば、アクセントを加えても、視力補正という必然性が残ります。
そのため、装いへの移行が比較的穏やかです。
ただし、眼鏡であっても、サングラスの扱いには注意が必要です。
サングラスは印象が強くなりやすい。
屋内での着用や、表情の読みにくさによって、威圧感が出る場合もあります。
その場にとって不要な異物にならないこと。
必然性小物で文脈をずらすなら、必然性の核を残したまま、少しだけ偏移させる必要があります。
ずらしすぎるとガラパゴス化する
文脈のずらしは、意図の流路を確保する作業です。
ただし、それが成立するのは、そのアイテムの必然性を保ったまま偏移しているからです。
ずらしすぎると、そのアイテムは元の文脈から切り離され、どこにも属さない奇妙なものになります。
私は、これをガラパゴス化と呼んでいます。
眼鏡であれば、視力補正や顔周りの道具という核を残しているから成立する。
革靴であれば、歩くための道具であり、足元を整えるものという核があるから成立する。
その核を見失うと、流路を開くどころか、違和感として閉じられてしまう。
文脈をずらすときは、そのアイテムが元々持っている核が何かを考える必要があります。
結局、アクセサリーをつけたいのか
本心では、非常に興味があります。
ただ、私の置かれている環境で、人の集まる場にアクセサリーの主張をそのまま持ち込むのは、まだ少し難しいと感じています。
現実的なのは、知人との会合を何回か重ね、自分の装いの傾向を少しずつ認識してもらったうえで、少し攻めた主張を出してみることです。
一方で、逆の方法もあります。
誰との関係性も生じない出先であれば、説明の筋を細かく立てる必要はありません。
誰にも説明せず、己の趣向性を凝縮した一品を身につける。
筋を通して少しずつ攻めるか。
関係のない場で振り切るか。
どちらも、まだ可能性として抱いています。
アクセサリーは難しい。
けれど、その難しさごと、可能性と昂揚を抱かせるアイテムなのだと思います。